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2016

シュトロツェクの不思議な旅

STROSZEK / 1977年 / 西ドイツ / 監督:ヴェルナー・ヘルツォーク / ドラマ
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わたしがいなくても、世界はなにごともなく回っていく。
【あらすじ】
ドイツでひどい目にあったのでアメリカに来たけれど‥‥。


【感想】
観方がよくわからない映画というのがあって、この映画もそんな一本ですね。監督のヴェルナー・ヘルツォークは、あの恐ろしい名作「アクト・オブ・キリング」の製作総指揮もしていますね。

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飲酒絡みの事件で刑務所に入っていたシュトロツェク(ブルーノ・S)。刑期を終え社会に戻るが、社会は刑務所の中よりも過酷だった。シュトロツェクは生活に困る娼婦エーファーを気の毒に思い、自分の家に住まわせてやる。だが、やがてエーファーから金をせびっていた男たちにつけ狙われることに。シュトロツェクは、隣人であるシャイツの助けを借りてエーファーと共にアメリカへ旅立つ。

アメリカに行けばきっと金持ちになれるはず。そう思っていた時期がありました‥‥、という二人。

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実にさびしいさびしい話でねえ。監督は何を伝えたかったのだろうか。主人公のシュトロツェクはちょっと頭が弱い。刑務所の所長らしき男が出所の際に「おまえは飲酒絡みで事件を起こしているのだから、絶対に酒を飲むなよ。酒場には近づくなよ」とくどいほどに念押しする。

出所した足でシュトロツェクは酒場に向かい「とりあえずビール」である。はやっ!と思いましたね。これ、笑うしかない速さですけども。悲惨でありながらもユーモラスというのが監督の持ち味なのかな。シュトロツェクは、いくら「酒を飲むな」といわれても、その忠告を受け止めるだけの頭がない。酒場にまっしぐらで、すぐに酒を注文する場面は笑えるのだけど悲しい。

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ドイツで娼婦をやっていたエーファー。シュトロツェクとシャイツと共にドイツを出て、アメリカでウェイトレスをしてやり直そうとする。エーファーは英語ができるので、トレーラーハウス購入の契約を結ぶ。初めての持ち家にはしゃぐシュトロツェクとエーファー。

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だが、幸せは長く続かない。シュトロツェクは自動車修理工場、エーファーはウェイトレスでお金を稼ぐものの、住宅ローンは払えない。やがてエーファーは、新しい男を作り、シュトロツェクの元を去る。シュトロツェクには借金だけが残された。エーファーは結果的にシュトロツェクを裏切るが、彼女も最初から裏切ろうと思っていたのではなく、売春をしてまで住宅ローンを払おうとしていた。貧しさゆえに裏切らざるを得ない悲しみがあったのではないか。

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愛想だけはいい銀行マン(右)がやってきて、家を競売にかける書類に意味もわからずサインさせられてしまうシュトロツェク。この競売の場面もおかしくて、競売をする大佐(左)が魚市場のような独特な節回しで競売を取り仕切る。悲惨な場面ほどおかしくしてしまう。監督、狂ってるのかなあ。

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なんもなくなってしもうた‥‥。シュトロツェクさんの背中がさびしい。

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怒りのあまり、銀行襲撃をくわだてるシュトロツェク(右)とシャイツ(左)。いやあ、銃を持ってるおじいちゃんは絵になるなあ。ところが銀行がお休みで、仕方がないので隣の床屋を襲撃することに。いいかげんだなオイ。

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これも笑っていいのかどうなのか、よくわからない。資本家はまったく傷を負わず、弱者が弱者を傷つけているという風刺なのだろうか。シャイツは逮捕され、シュトロツェクはなんとか逃げ出す。

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絶望したシュトロツェクはいくつか不思議なことをやる。広場で車をグルグルと動かし続ける。自分が運転しなくても回り続けるように、アクセルに細工をして車から降りる。車は広場を回り続ける。シュトロツェクはリフトの電源を入れ、リフトに乗って山の頂上に向かう。やがて山から一発の銃声が聞こえ、映画は終わる。

これはどういう意味なのか。車やリフトというのはシュトロツェクにとっての「世界」ということなのかな。彼がいなくても世界(車、リフト)は何事もなかったかのように動き続ける。彼の存在は、世界にとってほんの些細なもので、いようがいまいが関係ない。弱者の悲しみを感じさせる。

シュトロツェクに罪はあるのだろうか。頭が弱く、ドイツにいたときは借金取りの暴力に苦しめられた。アメリカに来てからは住宅ローンやエーファーの裏切りにあった。それは彼が弱く愚かだったからである。弱く愚かであることの罪というのはどれほどのものなのだろう。彼は間違っていなくて世界が間違っているのかもしれない。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が浮かんだ。

シュトロツェクという存在は貧困層を戯画化したものに思える。シュトロツェクほど極端ではなくても、十分な教育が受けられず貧しい人はそこらじゅうにいる。貧しくて愚かなのは、どこまで本人たちの責任なのだろう。裕福な人や成功者は努力のなさを責めるかもしれない。しかし、裕福な両親の元で恵まれた教育を受けられる者と、貧しい環境の元で育った者とでは、あまりにも環境に違いがある。裕福な者がその椅子に座っていられるのは、単に運が良かったようにも思えるのだ。

世界から見放された弱者の映画なのか、それとも観方が間違っていて本当はまったく別の意味なのかな。淡々としている中にもおかしさが漂っていて、悲しみとおかしみの相性の良さというのも感じた。
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