08
2017

デンデラ

2011年 / 日本 / 監督:天願大介 / ? / 118分 
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ババア VS 熊。
【あらすじ】
姥捨て山に捨てられたおばあちゃんたちが村を作りました。



【感想】
「姥捨て山には、続きがあった。」というのは興味をひかれるコピー。天願大介監督の父・今村昌平が姥捨て映画「楢山節考」を撮り、息子がそれを引き継ぐという。この映画はジャンル分けが難しくて何に入るのだろう。珍作であるのは間違いない。

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70歳になると村のしきたりによって山へ捨てられた老女たち。三ツ星メイ(草笛光子、右)は生きのびることをあきらめない。メイは姥捨てによって捨てられた老女たちを助け「デンデラ」というコミュニティを山の反対側に作り上げた。そして、自分を捨てた村人たちへの復讐の機会をうかがっていた。おばあちゃん、こわー!

デンデラという言葉は検索すると以下の記述がありました。

おばあちゃんたちが死んでいくときに「デンデラ~!」と叫びながら死んでいくんですよね。これが面白くて。村には捨てられたけれど、やはり生きていくにはコミュニティが必要で、デンデラこそが彼女たちの心の故郷になっていたということかな。それでも叫ぶのは面白いのだった‥‥。

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◆斎藤カユの放尿
映画は斎藤カユ(浅丘ルリ子)が山に捨てられ、放尿する場面から始まる。浅丘ルリ子さんというと「すいか」というドラマの崎谷教授役が印象的だった。凛として他人にも自分にも厳しい性格ながら情に厚い。あのドラマ、面白かったなあ。で、よく浅丘さんに放尿させましたね。

ドラマ「ウォーキング・デッド」は第一話で子供のゾンビを殺す場面がある。ゾンビ物のタブーというか、なんとなく避けられていたのが子供や赤ちゃんのゾンビである。大人はゾンビ化したらいくらでも殺していい(偏見)が、子供だけはというのがどこかにあった。まず第一話でいきなり子供のゾンビを殺すことで「このドラマはぬるくないぞ」と示してみせた。

その「子供のゾンビ」に当たるものが「浅丘ルリ子の放尿」なのではないか。この場面を観たとき、思わず「ほう‥‥、にょう‥‥」とつぶやいてしまった。だが、事は放尿なわけで、はたして放尿で「この映画はぬるくない」と示せたかといえば少し疑問で「何かとんでもない珍作の予感」がしたというのが正直なところだった。



◆おばあちゃんたちのがんばり
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おばあちゃんというには失礼かもしれない。おばさまかなあ。浅丘ルリ子、倍賞美津子、山本陽子、草笛光子、山口果林、赤座美代子などなど錚々たる顔触れ。そんな人たちが村人に復讐すべく、わら人形を手製の武器で「おら~!」と攻撃しているさまは微笑ましい。ちょっとヨロヨロしてない?

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復讐を宣言する三ツ星メイに対立しているのが椎名マサリ(倍賞美津子)。独眼竜正宗を思わせる眼帯をしておりますね。なんだか凛々しいぞ。彼女は村のしきたりに反したとして、村人たちからすさまじいリンチを受ける。それでも暴力を否定しているんですね。この映画は、男の力の支配に対する反抗なのかなとも思いました。

女だけのコミュニティでも、村への復讐を拒否する椎名マサリたちは「意気地なし」と罵られる。これはちょっと面白い。男がいなくても力による支配は成立しているように見えるのだ。女の中で力が強い者が男の役目を果たすような。

で、ちょっと奇妙に感じたのが名前の呼び方。彼女たちはお互いを「椎名マサリ」とか「斎藤カユ」とかフルネームで呼び合う。普通は苗字か名前どちらかだと思うのだけど。苗字というのは嫁いだときに男の苗字になるのが一般的である。でも彼女たちは今はデンデラという女だけのコミュニティに属しているわけだから苗字というものが必要ない。それでも彼女たちは苗字を捨てずに使っている。村という男優位のコミュニティを脱したにも関わらず、まだその仕組みそのものからは抜けられないということなのかな。



◆熊が意味するもの
三ツ星メイを中心としたメンバーは村の襲撃を計画していたが、突如、デンデラは熊の襲撃を受ける。三十年間、熊はデンデラを襲ったことがなかったのに。これはどういうことなのだろう。

村の勝手なしきたりによって無理やり追放された女たち。彼女たちは力によって存在を否定されてきた。だが、彼女たちが村人に復讐するということは、彼女たちがされてきたこと「力による存在の否定」なのではないか。熊は力の行使を認めず、彼女たちに罰を下したのかな。

デンデラは、男を糾弾する映画にも思えない。そもそも姥捨てという村のしきたりには女も従っていたわけで、女も老女たちを追放してきた。男でも女でもなく、力の支配そのものへの抵抗なのだろうか。

デンデラでは、食料などを力のある者が独り占めにせず分配してきた。だからみんな生きのびられたと語っている。富の独占の否定という見方もできる。


最後に、斎藤カユは自分の命を犠牲にして熊を村に導く。村を熊に襲わせてしまおうというわけなのだ。この熊はメス熊で、さらに狂暴なオス熊を呼び寄せ、オス熊は村人を荒々しく殺害する。そのとき、斎藤カユはメス熊に語り掛ける。「まんだ(また)、子を産むつもりか?」。

わたしたちは子供を作り続けていく。それが生き物の性であるということなのかな。

さらに「教えてけれ。どっちの負けだ?」とメス熊に訊ねる。

これは斎藤カユと熊の勝ち負けなのだろうか。男と女に分けて考えること、富裕層と貧困層に分けて考えること、対立が本当に必然なのかということへの疑問を示すのかな。対立していると見えるお互いは実は敵ではないという。性差、差別、搾取についての映画なのだろうか。ちょっと変わった映画を観たい人にはお薦めです。よくわかりませんでした。

もっとも印象に残ったのが放尿。そして、着ぐるみっぽい熊だった。


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