FC2ブログ

旧作映画の感想、ネタバレしてます。
03
2017

FAKE

2016年 / 日本 / 監督:森達也 / ドキュメンタリー / 109分
s1__20170703161612ecd.jpg
面白ければ本当に何をしてもいいのか。
【あらすじ】
ゴーストライター騒動の佐村河内守さんに森達也監督がインタビューする。



【感想】
そもそもこのゴーストライター騒動というのをよく知らないんですね。印象に残っているのは、長髪サングラスの佐村河内さんが謝罪の記者会見では髪を切ってサングラスも外し、別人のような容貌で登場した場面だと思います。「誰だこれ」という。その程度の知識しかありません。

撮影の大部分は佐村河内さん宅で行われる。佐村河内さんは騒動以来ほとんど外出していないようです。外国人記者の取材、フジテレビからの出演依頼、やたらにケーキを出してもてなす奥さん、かわいい猫のミノキチなどなど、最後は森監督が佐村河内さんに作曲を勧め、エンドロールでは佐村河内さんが作曲した曲が流れます。

クリップボード04

メディアにはゴーストライターの新垣さんが善、依頼者の佐村河内さんは完全なる悪という形でとりあげられることが多かったように思う。騒動後、新垣さんはメディアの寵児となりバラエティなどにも出てブレイクした。メディアは一斉に持ち上げて、何かあれば一斉に叩く。本当に叩かれた側はすべてが間違っていたのか。

観終わった直後の印象は、物事を単純化し二極化することの危険性に警鐘を鳴らす作品かと思いました。佐村河内さんには佐村河内さんの真実があり、新垣さんには新垣さんの真実がある。もうちょっと多面的に物事を捉えなさいよという。いくつか漠然とした違和感を覚えたものの、それでも「佐村河内さん、そんな悪い人じゃないんじゃないかな」と思っていた。



森監督は当初は佐村河内さんに興味はなく、知り合いの編集者に佐村河内さん宅に連れて行かれ、二時間ほど話したのちに映画化を決意したそうです。

クリップボード09

映画は佐村河内さんの食事という日常も捉えていて興味深い。奥さんが手作りハンバーグを出すが、佐村河内さんは豆乳を飲んでいて食べないんですね。森監督が食事になかなか手を付けない理由を訊ねると、佐村河内さんは「食べる前に、豆乳を全部(1パック)飲むんです」と暗い表情で答える。どんだけ豆乳が好きなんだ。淡々と豆乳を飲む佐村河内さんのおかしさがいい。



◆フジテレビからのバラエティ番組出演依頼
年末バラエティ特番への出演依頼のため、フジテレビ社員が4人やってくる。彼らは服装もきちんとしており、とても真面目で誠実そうに見える。口調も丁寧で失礼がない。テレビマンというと豪快で明るいイメージがあったのですが、どこにでもいるきちんとした会社員にしか見えないのだ。

テレビの出演依頼など通常目にすることはできない。珍しいものが見られました。奥さんがフジテレビ側のいいたいことを佐村河内さんに手話で通訳して伝える。フジテレビ側は神妙な顔で佐村河内さんの顔色をうかがっている。

緊張感を孕んだ空気が流れる。フジテレビ側は、実は誰も佐村河内さんの耳が聞こえないことを信じてないと思うんですよ。「本当は聞こえてんだろ」と内心思っているのではないか。だけどそういったことはおくびにも出さない。佐村河内さんは佐村河内さんで「『本当は聞こえてんだろ』と思われているのではないか」と、フジテレビ側の反応を気にしているようにも見えるのだ。だが、表面上は誰もそんな様子は見せずに打ち合わせはすすんでいく。見ていてハラハラした。フジテレビ側の人がにやけて「ここだけの話、本当は聞こえてるんですよね?」といえば、とんでもないことが起きるように思えた。

ちなみに佐村河内さんの耳の状態ですが、“全聾の天才作曲家”5局7番組に関する見解(BPO 放送倫理・番組向上機構)の中に、専門医(慶応義塾大学医学部耳鼻咽喉科学教室・小川郁教授)からの聞き取り調査の項があり、以下のような記述がある。

「――音に対する脳波の反応を測定するASSR(聴性定常反応検査:Auditory Steady-State Evoked Response)の結果を併せ、これらの検査結果を総合すると、 佐村河内氏は、現在、軽度から中等度の難聴があると考えられる。
――感音難聴の場合には音が歪んで聞こえるのが通常であるため、佐村河内氏の訴えはそのとおりであろう。しかし、快適な状態で聞こえないとしても、佐村河内氏の診断書の状態にある難聴者は、補聴器を使用して会話をするのが一般的である。佐村河内氏に手話通訳の必要はないのではないか 。」

検査が行われた2014年時点での佐村河内さんの状態は、音がまったく聞こえない全聾ではない。快適な状態で聞こえないとしても補聴器を使用して会話するのが一般的であり、手話通訳の必要はないのではないかと結論付けている。総合所見では「聴覚障害には該当しない」と記載されている。


フジテレビ側はバラエティ番組の内容について、決して佐村河内さんをバカにしていじるではなく、あくまで前向きな内容にすると約束する。後日、佐村河内さんは番組への出演依頼を断った。放送された番組には新垣さんが出演し、説明とは逆に佐村河内さんを嘲笑する内容になっていた。テレビの中ではしゃぐ新垣さんを見つめる佐村河内さんの感情を押し殺したような表情がね、ものすごいなあという。あの場にいられないですよ。よく撮りましたねえ。

佐村河内さんは、このひどい扱いはメディアを欺いてきた自分への復讐ではないかというんですね。しかし、森監督はそれを否定して分析する。彼ら(フジテレビ社員)に信念などはなく、そこにある素材でどうしたら番組がもっとも面白くなるかを考えて番組を作っている。だから、佐村河内さんが出演した場合、番組は違う形になっていた可能性がある、というようなことをいう。これは鋭い分析に思える。彼らが佐村河内さんに悪意があるわけではないのだ。



◆海外メディアNEW REPUBLICの取材

クリップボード02h

次に海外メディアNEW REPUBLICの取材が入る。このインタビュアーがね、まあ鋭いんですよ。新垣さんと18年間も仕事をしていたけど、楽譜の読み方を勉強する時間があったのでは? とか、新垣さんが作曲できる証拠はいくつもあるがあなたにはない。これはどういうことかとか、メロディーを作ったというピアノはどこにあるのかとか。

最後の質問ですが、佐村河内さんはピアノを「捨てた」と答えるんですね。インタビュアーが理由を訊ねると佐村河内さんは「家が狭かったから」と答える。これにはもう本当に驚いた。ちょっと笑ってしまった。

思い返すと、ここで佐村河内さんに違和感を感じたのかもしれない。普通、プロの作曲家がピアノを捨てることが有りうるだろうか。その理由が「耳が完全に聞こえなくなったから」ならまだしも「家が狭かったから」って。どんな職業でも商売道具を捨てるかなあ。

映画を観終わった後、このインタビュー記事であるPhantom of the Orchestra(NEW REPUBLIC)を探しました。読んだ後に、佐村河内さんの印象がガラリと変わってしまった。佐村河内さんもそうですが、森監督への印象ですね。

この記事は新垣さんと佐村河内さんの主張を列挙している。だが、それらについてどちらが正しいか判断を下してはいない。ただ、新垣さんはいくつかとても重要なことを述べている。義手でバイオリンを演奏する少女のために佐村河内さんが曲(実際は新垣さん作曲)を提供した話、震災による津波で母を亡くした少女のためにレクイエム(実際は新垣さん作曲)を捧げる話、佐村河内さんの奥さんから新垣さんへの手紙(もしゴーストライターという秘密を明かすなら佐村河内さん夫婦は自殺するという内容)。これらの重要な主張を確認するため、NEW REPUBLICは佐村河内さんに質問したはずである。特に前の二つ、自分がのし上がるために障害を持つ少女と、震災で母親を亡くした少女を利用したことについては必ず聞かねばならない。

映画ではインタビュアーの厳しい追及に追い詰められたのか、たびたび沈黙し、感情を露わにして席を立つ佐村河内さんだけが映されている。だが、聞かれたであろう上記の3つの事柄について映画ではまったく触れられていない。意図して外したのではないかと考えざるを得ない。だとすると、なぜそんなことをしたのか。


◆ドキュメンタリーという言葉の定義

s1__20170703161612ecd.jpg

これはFAKEのポスターだが、あらためて見たときに違和感を感じる。「ドキュメンタリー」と「出演」のところに赤丸が打ってある。単なるデザインともとれるが、これみよがしに強調されているようにも見える。そもそも「出演」とわざわざ書いてあるのが奇妙に思える。映画のポスターを検索してみればわかるが、普通のポスターは「監督」は当たり前に書くとして「脚本、音楽、美術、撮影」などは状況によるだろうけれど「出演」は書かない。名前が並んでいたら、出演している役者だろうと誰もが思うから。

ドキュメンタリー作品で「出演」というのがどうもしっくりこない。じゃあ、出演といわないかといえば、そんなことはないのだけど。だが、出演というのはそれこそ「出て演じる」わけで、これを赤丸で強調した意味を勘ぐってしまう。カメラの前では誰もが無意識にしろ演じざるを得ないという意味での「出演」なのだろうか。それとも佐村河内さんが多くの事実を偽り、演じていることを意味しての「出演 佐村河内守」なのか。

さらに気になったのは「ドキュメンタリー」という言葉について。ウィキペディアの定義をそのまま引っ張ってくるのは甚だ危険ですが、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」とある。さらに付け加えるなら、真実に迫るようなものだと思っていた。

森監督はドキュメンタリーについてそのような定義を認めていない。普通の映像作品と同じといっている。「一般的にドキュメンタリーは制作者の意図や主観を含まぬ事実の描写、劇映画(Drama film)・ドラマは創作・フィクションであると認識されているが、本質的に差はない」(森達也『ドキュメンタリーは嘘をつく』草思社)。

重要なのは森監督にとってドキュメンタリーは真実を追及した作品ではないということです。むしろ「真実なんて安っぽいこというなよ」と怒られてしまうかもしれない。それはどの角度から見たものか、誰にとっての真実かといわれそうである。客観など存在せず主観しかないという。ただ、世間の人間は、ドキュメンタリーという言葉を聞いたとき、取材対象に演出を加えず、かつ真実に迫る作品をイメージすると思うのだ。

ドキュメンタリーという言葉が持つ意味が、森監督と一般人では大きく異なる。森監督はそのずれを知りながら、意識的にずれを利用したように思う。この作品を観るとき、観客は世間が知らない佐村河内さん側からの真実・主張を映した作品だと理解するだろう。だが、森監督にとって真実の追及はどうでもいいのだ。だから、佐村河内さんに利用された二人の少女も無視される。奥さんが佐村河内さんとグルだったのではないかという疑問、手紙にも触れない。そんなことは森監督が撮りたいことではないのだ。

ゴーストライター騒動の発端となった告発記事を書いた神山典士さんは「この作品に、真相や真実を問う姿勢などない」(BLOGOS)と憤っている。お二人はFACE BOOKでもやりあっているが神山さんは森監督を「ジャーナリストではない」といっているし、森監督は「『最初からそうですよ』と答えるしかない」と書いている。これはドキュメンタリーについての認識の違いがあるから噛み合わないのだ。

ネットメディアwebDICEから森監督へのインタビューの中で、森監督は「佐村河内さんに(映画のことで)インタビューするメディアには協力できない」とはっきりいっている。もし、ゴーストライター騒動の裏側にある真実の追及が目的であるならば、インタビューを拒否する理由などないはずなのだ。



◆森監督の恐ろしさ
佐村河内さんがなぜ森監督の取材を受けたかといえば、この作品を通して自分の主張を伝え、あわよくば表舞台に戻りたいという野心からだろう。表舞台は無理でも、今の悲惨な状況(仕事ゼロ、友人はすべていなくなった)を少しでも改善させたいと思ったのかもしれない。

森監督は、この映画を撮る前は佐村河内さんについてはほとんど知らなかったという。それは嘘ではないように思える。だが、NEW REPUBLICの取材等を通して、佐村河内さんが多くの嘘をついていることがわかったのではないか。だが、森監督は取材を続け、佐村河内さんから「僕のこと信じてくれますか?」と訊かれたときも「信じなきゃ撮れない」「(佐村河内さんと)心中」というようなことまで答える。恐ろしい人である。間違いなく森監督は佐村河内さんを信じていない。

もし、森監督が佐村河内さんに心酔し、佐村河内さんを100%信用しているならこの映画はまったく問題がないと思うのだ。なぜ信用してしまうのかという問題はあるが、それはまた別の問題である。ところが、森監督は佐村河内さんが多くの嘘をついていると知りながら、佐村河内さんを信頼しているフリをして佐村河内さんに取材を続ける。そのおかげで、佐村河内さん夫婦の愛情など興味深い映像が撮れている。もし正直に、あなたのことは信じていないといえばこのドキュメンタリーは撮れなかったはずである。

だが、面白いものが撮れれば佐村河内さんをだましていいのか。また、佐村河内さんは自業自得としても、佐村河内さんが利用した二人の少女やその家族たちを傷つけていいのかという疑問があるのだ。この作品を観たら、利用された方たちは怒るように思う。新垣さんと神山さんが森監督の取材を拒否した部分も、自分たちに都合が悪い事実があって断ったかのように映っている。これは新垣さんのサイト神山さんのFACE BOOKなどでそれぞれ反論がある。

ディレクターズカット版には佐村河内さんを「家族」と慕う少女も出る。彼女も騙されているように思うのだけど。それは、わたしがそう思うだけで、あの少女から見たら佐村河内さんは優しいおじさんである、といわれれば確かにそうであるのだが。

作品というのは誰かを傷つける可能性が常にあるというのは当たり前かもしれないが、この作品はそうまでして撮られなければならないものなのか。そして「ドキュメンタリー」という言葉のずれを利用し、真実を追及した作品であるかのように見せるテクニックを使用しているが、それはいいのだろうか。そうまでしてという感情が拭えないのだ。

森監督の残酷さを感じたのは、佐村河内さんに作曲を迫る場面である。佐村河内さんに感じた違和感の一つとして、音楽への情熱がまったく感じられないことにあった。発表する場がないにせよ、この人から音楽を作りたいという切実さがまったく伝わらないのだ。ピアノは家が狭かったから捨てたとかいうし‥‥。

森監督は自分も禁煙するから、佐村河内さんに作曲をしろと強く迫る。「音楽が頭の中に溢れてるんでしょ? 出口を求めているはずです」と、いささか芝居がかった様子なのだ。「おまえやれんのかよ!」と迫る場面はプロレスなどではよく見たが、そんなやりとりを思わせた。森監督は本当は佐村河内さんが作曲できるとは思ってないだろうが、佐村河内さんを信じていることになっているから、作曲を勧めるのは不自然ではないのだ。ここに森監督の恐ろしさがある。

佐村河内さんは作曲することを約束し、しばらくして曲は完成する。だが、実際に曲を作るところが映画に撮られていないのは残念だった。佐村河内さんがキーボードに打ち込みをして自分で作ったのか、また誰かに依頼したのか、それはわからない。作られたのは交響曲ではないから、佐村河内さんにも作れるレベルのものなのかもしれない。


最後、森監督は佐村河内さんに訊ねる。

「今、僕に嘘をついたり隠していることはありませんか」

このときの佐村河内さんの衝撃はどれほどだっただろうか。佐村河内さんは何も答えずに沈黙を守り映画は終わる。あれだけ信頼関係を築いてきたと思ったら、最後にこれかという。森監督は佐村河内さんをまったく信じていなかったことを突きつけたようなものである。なんと残酷なことをするのだろう。だが、残酷な人だからこそこの映画が撮れたともいえる。佐村河内さんの心はズタズタに傷ついたかもしれない。

思えば、森監督がフジテレビ社員を正確に分析してみせたのは当たり前かもしれない。彼ら(フジテレビ社員)に信念などはなく、そこにある素材でどうしたら番組がもっとも面白くなるかを考えて番組を作っている。これはまさに森監督自身の姿ではないだろうか。

作品が人を傷つけるというのはどの程度ならば許されるのだろう。完全なフィクションとして映画を撮ったとしても「あの部分は違う」とか「そんな意図でいったんじゃない」という実在の人物の不満は出るだろう。だが、なるべく真実に近づけようとする努力は必要なのではないか。繰り返しになってしまうが、この映画は佐村河内さんに利用された二人の少女などはなかったこととして扱われている。それは森監督の望むものではなかったからだろう。だが、「必ず真実に近づけよ」と強制すれば、表現を規制してしまうように思うのだ。その「真実」とやらも、誰の真実かという問題がある。

また、佐村河内さんがどれほど悪いことをしたかというと、自分の曲と偽り、新垣さんに曲を書いてもらっただけなのだ。マスコミのおもちゃになり、世間から批難を浴びて表を歩けなくなるのは当然の報いとまでいえるのか。もちろん、直接的に被害を受けた少女たちや、NHKスペシャルの担当者、CDの発売元などは批難する権利はある。

どうやってこの映画を捉えればいいのだろうか。まだよくわからずにいる。


映画を観た後に読んだサイトを挙げておきます。
Phantom of the Orchestra(NEW REPUBLIC)
映画「FAKE」に関する新垣事務所の見解(音楽家新垣隆オフィシャルサイト)
“全聾の天才作曲家”5局7番組に関する見解(BPO 放送倫理・番組向上機構)


関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Leave a comment