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旧作映画の感想、ネタバレしてます。
21
2018

ニーチェの馬

A torinói ló / 2011年 / ハンガリー、フランス、ドイツ、スイス、アメリカ / 監督:タル・ベーラ、アニエス・フラニツキ / ドラマ / 155分
a torinói ló
水を汲み、食事を作り、眠りにつく。荒涼とした世界で繰り返される日常。
【あらすじ】
世界が終わるその時に。



【感想】
今まで観た映画の中でもっとも風変わりで、忍耐が必要な映画かもしれない。3回寝ました。パソコンで映画を観るときはいつもは椅子に座っていますが、椅子から降りて蹲踞の姿勢をとり、かつダンベルを使って筋トレをしながら観た。そこまでしないと寝る。

映画は誰が観ても楽しい映画と、観るのにコツが必要なものがある。この映画は後者に属する。そのコツは知識や経験の場合もあるし、人生への洞察、多少の忍耐力ということもあるだろう。たはー、こういうの向いてないー。たくさんの人が景気良く死ぬような、何も残らない映画でいいの‥‥。

トリノの広場で、鞭打たれる馬の首に泣きながらすがりつき、発狂したというニーチェ。その逸話に影響を受け、この作品は制作されたらしい。えらいものに影響を受けるなあ。ニーチェは作品に登場しない。

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荒れ果てた田舎道、くたびれた様子の馬がおんぼろの馬車を引いている。この馬がニーチェの馬だろうか。生気は失われ、それでもただ馬車を引いている。喜びも悲しみもない。それは御者である年老いた男も同じに見える。この映画には最小限のものしか映らない。古びた石造りの家と井戸、農夫と娘、馬と馬車。馬は馬車を引き、娘は井戸に水を汲みに行き料理をする。右手の不自由な御者は娘に着替えを手伝ってもらう。同じような場面が繰り返され、単調な音楽が繰り返し使われる。

繰り返し繰り返し映し出されるこの単調さが人生の象徴なのだろうか。画面を覆い尽くす陰鬱さは監督の人生観なのか、それともニーチェの人生観なのか、日常を光の当たらぬ牢獄のように描いている。どんなに贅沢で華やかに見える暮らしをしようが、しょせんは人生八十年。死による消滅という恐怖、孤独、老いからは誰しも逃れられない。現代人がなるべく見ないように、気づかないようにしている人生の辛さを淡々と映し出してくる。

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全然インスタ映えする展開などありませんが、大丈夫でしょうか。くたびれたおっさんがメインである。この映画はGYAO!で観たが、たまに流れるGYAO!の広告のほうが面白い。ひたすらに重苦しいし、観ていて退屈で眠くなる。

馬は餌を食べなくなり、井戸の水は涸れ、やがて灯りすら消えてしまう。衰えゆく肉体、終わりゆく人生を暗示しているように感じる。そうすると、観客が退屈して寝るというのも頷けるのだ。そもそも、人生は単調な繰り返しであるし、それほど華やかなことなどない。この単調さに牽引される退屈さは、監督の計算のうちかもしれない。だから、私は寝ていいのです。

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井戸が涸れたとき、親子(かどうかはわからないが)は家を離れる決意をする。

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風が吹きすさぶ中、親子は丘の上まで馬車を押していく。丘の向こう側に何が見えたかは描写されない。丘の向こうには何があったのか、何もなかったのか。同じ景色がどこまでも続くのだろうか。彼らはやがてまたトボトボと自宅まで引き返してくるのだ。

人生で苦境にあるとき、ここよりすばらしい場所があるのではないかと思うことがある。テレビの中の人たちはあんなに楽しそうだと思うことがある。でも、私たちはどこにも行けるようで、実はどこにも行けないのではないか。私は私という肉体を離れることはできないし、自分は他人になりえない。現実的にはどこにも行きようがない。

彼らが引き返してくるのは、ボロボロではあるが少なくとも雨風は凌げる家があるからだろう。家しかないとも言えるけど。家とはなんだろうか。肉体や環境が家なのだろうか。ある人間は立派な家を持ち、ある人間はみすぼらしい家を持つ。それはもう仕方のないことである。

そして丘の「あちら」と「こちら」という境など幻想でしかないのかもしれない。どこにも逃げようなどない。私は私から逃れられず、私と折り合いをつけて人生をおくらねばならない。

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馬が食事を食べなくなるというのは、外出が困難になって外との交流が断たれるという意味なのかな。どんどん状況が悪くなっていく様子は、老いを表すようにも見える。灯りもつかなくなり、火で調理もできない。食卓には生のじゃがいもだけがある。娘はもはや食べようともしない。父は「食わねばならん」とだけ言い、じゃがいもをかじる。

世界に死ななかった人は一人もいない。誰もが人生を終えることは決められている。その決定された悲劇までの間、とにもかくにもやり過ごさねばならない。この「食わねばならん」というのは、生きなければならないという言い換えができるように思う。そこには幸福も不幸もない。意味などない。ただ、それでも生きなければならない。それが人生だ。映画は終わる。



◆この映画の存在意義とは
なんでこんな悲しい映画を作ったのだろうと考えていた。

人生の無意味さ、残酷さを和らげるため、それに対抗するためにさまざまなものが生み出された。不老不死の薬や思想、生まれ変わりを約束する宗教、お金、人との絆、娯楽、芸術。これらの中にはもはや有効に機能しないものもある。科学は不老不死を否定し、神をも殺したかもしれない。

また、社会状況の変化が人間関係を変化させることもある。かつては祖父母との同居が当たり前だった時代がある。農業の労働生産性が上がり、多くの人が農業に従事する必要はなくなった。農作業にあぶれた次男、三男は都市部に出てきて労働者となった。大家族は崩れて核家族化が当たり前になる。人との繋がりも変化を遂げる。親族の絆が薄れるのも当たり前かもしれない。

かつて有効に機能したものがその力を失ってしまった。だが、まだ機能しているものとして芸術があり、映画もその一つに思える。だから映画は観終わったあと、心にささやかな希望の灯がともるようなものが嬉しい。NHKのような完全ハッピーエンドなどはいらないから。

ですが、この映画はそんなささやかさな希望すら許してもらえない厳しさを感じる。しかし、娘が生きることに絶望して食べるのをやめても、年寄りが「食わねばならん」というのが、やはり希望なのかなあ。闇の中にただ生きて、そこに意味はあるのだろうか。

人の心の慰めになるべき映画が、人を落ち込ませてよいものかと考えてしまった。もっとも、「人の心の慰めになる」とか「ささやかな希望の灯がともるような」というのは、私の勝手な願いなのだから、それが間違っているのかもしれない。こういった人生の残酷さを突きつけることに、意義があるのかもしれない。そういう芸術だって存在していいはず。

どうなんだろうなあ。これ、エンドロールを「ドリフ大爆笑」と繋いだらいいんじゃないのか。それぐらいしてバランスがとれるような。


ものすごく久しぶりに聞いてみたんだけど、これも読み方によってはさびしさを感じさせる。

「いいとこだ、いいとこだ、さよならするのはつらぁいけど

時間だよ、しかたがない、次の回までごきげんよう」

うーん、私は宗教もないし、次の回がないからなあ。そこが人生のつらいところ。さまざまな解釈ができる難しい映画でした。わかりやすいのもいいですが、たまにはこういうのもね。

では、私はみんながお洒落なご飯をアップしているインスタグラムに、「ご飯は、じゃがいも一つだけ‥‥」というコメントを書く仕事に戻りたいと思います。


2018年2月9日 00:00~2018年3月8日 23:59の期間、GYAO!で無料配信中。
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