01
2011

映画「グラン・トリノ」

▼あらすじ
妻に先立たれ、一人暮らしの頑固な老人ウォルト。学校にも行かず、仕事もなく、自分の進むべき道が分からないモン族の少年タオ。二人は隣同士だが、挨拶を交わすことすらなかった。 ある日、ウォルトが何より大切にしているヴィンテージ・カー<グラン・トリノ>を、タオが盗もうとするまでは。
ウォルトがタオの謝罪を受け入れたときから、二人の不思議な関係が始まる。(Amazonより)
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その頑固さゆえに息子家族も寄り付かない老人、手本となる父親を亡くし道に迷う若者、お互いの欠落を埋めあうかのように二人は老人と孫のような関係となる。
ウォルトは古き良きアメリカの価値観を大事にするというか、ひらたく言いますと頑固ジジイというか。その頑固なじいさんが孫のようなタオに男の生き方を叩き込んでいく映画なのかなと思って観ていました。

だが、ラストシーンとそれまでのストーリーのギャップにやや戸惑いを覚えた。
親しくしていたモン族の娘がレイプされ、その復讐に起ち上がるウォルト。しかし、彼は銃を持たずに犯人の元へ向かう。懐から銃を取り出すような仕草をし、わざと自分を撃たせる。犯人たちは武器を持たない人間を射殺したことで重罪が課されるだろう。

クリント・イーストウッドの映画というのは「悪者はのさばらしちゃいけないぜ」という主張に溢れているし、実際に主役はその信条どおりの行動、つまり、銃で解決、力で解決、なんか文句ある?あるならおまえも撃つけどね!なのだけど今回は違う。ラストは勧善懲悪、力で解決とならない。
結局、悪者をのさばらしちゃいけないから制裁を加えるという部分は変わっていないのだけど、そのやり方は自分が死ぬことで法律にゆだねる、というのが少し変わっている。

ストーリーに少し不可思議な点がある。レイプされた被害者の証言があり、実際に犯人がわかっている。そして取調べが行われているにもかかわらず、犯人が口を割らなかったということで釈放されている。そんなことで釈放していたら犯罪だらけになってしまう。
ここで釈放してくれないと主人公が復讐に動けないというストーリー上の都合だろうか。だが、この被害者の女性が殺されていれば犯人が野放しになっていることのリアリティは増す。でも、そういった話にしなかったのはクリント・イーストウッドが凄惨さを嫌ったためなのではないか。もう、そういう悲惨な話は嫌なんだよという。

そういういささか都合のよい状況であり、犯人は100%の悪(物語を盛り上げる悪代官のような悪)として描かれている。ならば銃で解決しても問題はないはずである。ところがそうはならない。物語にだけ成立する完全な悪が存在するのに、選択された行為は現実的な回答である暴力を用いないものだった。(真に現実的な回答は被害者の訴えによる逮捕なのだが)
そこがラストシーンに違和感を感じた理由かもしれない。44マグナムで片っ端からドギューン!ドギューン!という爽快なシーンが観たかったのかもしれない。

しかし、クリント・イーストウッドは今そういう心持ちじゃないのかしら。この映画は古き良きアメリカを懐かしむクリント・イーストウッドの遺言状のように思えた。とはいえ、まだまだあのジイ様は健康そうである。そこらのチンピラなら一睨みでびびらす眼光がある。どうかいつまでもお元気で。
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