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2013

映画「ルルドの泉で」

ルルドの泉で
Lourdes / 2009年 / オーストリア・フランス・ドイツ / 監督:ジェシカ・ハウスナー /ドラマ


信仰心のない彼女になぜ奇蹟は起きたのか。
【あらすじ】
首から下の麻痺により長年車椅子生活を送ってきたクリスティーヌ。さして信仰心もないが、聖地ルルドへのツアーに参加する。すると、奇蹟が起きて体が動くようになったよ!あれ、なんで、わたしだけ?

【感想】

主人公クリスティーヌ(シルヴィー・テステュー、赤の帽子)は、車椅子ながらいろんなところに出かけており、聖地ルルドよりもローマが楽しいと言う人なんですね。信仰心もない。巡礼というより観光でルルドに来ている。

周囲の人もさまざまで、彼女を助ける大学生のボランティア(レア・セドゥ、写真左)は、ルルドに自分探しにやってきており信仰心などない。いい男がいると車椅子のクリスティーヌをほっぽって男のところに行ってしまう。これは、自分探しじゃなくて男探しでしたー。信仰心以前に常識が欠けているような‥‥。仕方がないので、同室のおばあさんが車椅子を押してくれる。

このおばあさんはかなり信仰心が厚い様子。マリア像に必死に祈っている様子から、かなり深い悩みを抱えていそう。他の巡礼者もそれぞれ悩みを抱えている。だがなぜか、もっとも信仰心の薄いクリスティーヌが、ある日突然立てるようになるのだった。奇蹟を目のあたりにした人々は、最初のうちこそ興奮して喜んでいたが「なぜ信仰心の薄い彼女が?」と妬みだす。嫌な展開になってきたよ。ワクワクしますなあ!

挙句に神父に向かって「なぜ彼女なんでしょうか?」と問い質す者も出る。車椅子の男性は「元に戻らないように祈ろう」と言う。この「元に戻らないように」という言い方が、浮かれているクリスティーヌに冷や水を浴びせるようだった。まあ、嫉妬なんだけどね!

この監督は無心論者なのだと思う。わたしは神様(人格神)の存在を信じていないが、無心論者が持ちそうな疑問がよく描かれているんですね。巡礼者たちは、主人公に起きた奇蹟を見て、奇蹟がなぜ彼女ではなく自分に起きなかったのかと不満に思う。みな神様の存在を疑おうとはしない。神を信じていなければ、そもそも奇蹟などはなく、ただの偶然だったということになる。

この映画を通してみると、宗教とは人生に受け入れがたい不条理が生じたとき、それを受け入れて納得するための装置なのかもしれない。主人公が自分の病気に不満を漏らすと「あなたの苦しみには意味がある」と神父に言わせている。理由については「神の御心」で片付けられてしまい答えは示されない。

キリスト教に限らず、どの宗教でも経典の内容を絶対的に正しいものとし疑うことを許さない。本当に全知全能の神がいるならば、闇雲に教えを盲信する信者ではなく、自分の頭で考えて疑ってみる真摯な態度こそ賞賛すると思うのだけど。人が生み出した宗教という装置は、どれだけの人を幸福に、どれだけの人を不幸にしたのか。

この映画は誰に向けて作られたのだろう。信仰心があるか否か、それによって感想がだいぶ変わるのだと思います。あと、まあ、嫉妬がすごい。それに尽きる。そんなに嫉妬したら、神様もあきれる。おまえだけには奇蹟起こすのやーめた!ってなる。


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5 Comments

しゅん  

No title

黒犬さん

藤子F先生、そんなの書いていたんですねー。読んでみたいなあ。

黒犬さんの解釈だと、神様は奇蹟のサンプル商品を配っているかんじで、信仰心が厚いユーザーはすでに商品を持っているから、薄いやつに配ったほうがいいよねという。

な、なんて人だ!神様、黒犬という不心得者がおりますので神罰を与えてください!あと、僕だけは天国に。

しーかし、マーケティング的には黒犬さんのやり方、正しそうですねえ。


とらさん

<気の持ちよう、の、気の部分が神さまにあたります。などと言ってみる。

あ、これまさに。ただ、この冷静さを持っているのは、とらさんが無心論者だから言えるような気もします。うーん、どうなんだろ。

山本弘、今度読んでみますねー。

2013/08/05 (Mon) 23:01 | EDIT | REPLY |   

(以下略  

No title

気の持ちよう、の、気の部分が神さまにあたります。などと言ってみる。

実は、幸せな片想いに例えたときには、そもそも救われるために信仰する、という第一目的が眼中にありませんでした。
神さまイコール救われるの図式が頭になかったので。
そういう目で見直すと、幸せな片想いには例えられなくなりますね。
確かに、衆生救済を唱えない宗教家はいない、ような気がします。

山本弘は、ものすごくオススメしたい作家です。
が、本人の世界観が充満しているので、意見が合わないと苛々されるかもしれません。

2013/08/05 (Mon) 21:18 | EDIT | REPLY |   

黒犬  

No title

横っちょから失礼致します。

藤子F不二雄先生の『神さまごっこ』という短編を思い出しました。
作中では「信仰心=奇跡をおこすための力の源」という扱いで、つまり「信仰心が集まらないと、奇跡をおこしたくてもおこせませんから!」と。
確かに博士の言うように、信仰心が篤いけど見返りを求めない人が最も純粋な信者なのでしょうけど、「神様を信じると、こんないいことがあるよ!」という神様の自分PRは難しそうですよね。
では、信仰心が篤く、見返りを求める人の願いを叶えるのはどうか?
叶えたところで、今以上の信仰心を得られるか難しいところではないでしょうか。
であれば、信仰心の薄い人に奇跡を与えたほうが費用対効果が高いのかな、と(笑)
分かりやすく言えば、奇跡後の信仰心を10とした場合、元々9だった人よりも、1とか2の人に奇跡をおこしたほうがゲイン率が大きい訳で。
まぁ、この映画の監督がそこまで考えてるのか知らんけど。

以上、信仰心の無い黒犬が語ってみました。

2013/08/05 (Mon) 18:10 | EDIT | REPLY |   

しゅん  

No title

「神は沈黙せず」面白そうですね。読んでみようかなあ。

<信心が篤い人の祈りは、幸せな片想いだと思うのです。叶えてほしい望みを願うのとは違って。

信心が篤くて見返りを求めないというのが純粋な信仰の態度にみえますね。叶えてほしい望みを願うというのはなにか不純であるような気もします。

でも、神様が「自分を信仰する人間しか救わない」と表明しているなら、それも見返りを求めているようで、どっちもどっちのような気も。うーん。信仰のある人には、神と人は対等ではないと怒られそうですが。


だいぶ前のことですが、フィリピンのピナツボ火山が噴火したとき、現地の人にインタビューしている映像を観ました。

ある人は「神様はなにもしてくれない」と怒っていて、またある人は「神様のおかげで、これぐらいの被害で済んだ」と言っていました。

2013/08/03 (Sat) 01:01 | EDIT | REPLY |   

とら(以下略  

No title

「神は沈黙せず」あたりの山本弘の作品と同じにおいがする、と思いました。
無神論者のにおいなのかしら。
信心が篤い人の祈りは、幸せな片想いだと思うのです。叶えてほしい望みを願うのとは違って。
おねだりしない慎ましい子の方がかわいい気がする、そして慎ましい子と無関心な子の区別は簡単じゃない、そんな神目線も想像してしまうレビュー。
さすがですね。(若沖風海獺的微笑)

以上、庭付きいわく付き一戸建ての現場からお伝えしました。
※表現はイメージです。実際の物件には曰くも因縁もありません。

2013/08/02 (Fri) 18:53 | EDIT | REPLY |   

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