02
2015

横道世之介

2013年 / 日本 / 監督:沖田修一 / 青春、コメディ
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失われし青春時代の輝き‥‥というと、今が無価値なようで、それはそれで淋しい。
【あらすじ】
大学入学のために長崎から上京してきた横道世之介の青春。



【感想】
原作(吉田修一)は未読。監督は「南極料理人」の沖田修一。あ、原作者と監督が同じ名前。沖田監督はコメディを撮るのが上手いですね。

長崎の港町から上京してきた横道世之介(高良健吾)の大学時代と、彼と交流を持った人々の現在が交互に映し出される。

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高良健吾演じる世之介の醸し出す雰囲気が自然でした。人を疑うことを知らないかのような無防備さ、ずかずかと他人の懐に踏み込んでくる図々しさ、人の頼みを断れない優しさ、年上の女性への憧れなど、そこら辺にいそうな大学生でとても似合っている。

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友人たちとの交流はどれもおかしく、特に友人の加藤(綾野剛、左)とのやり取りが良かったです。近寄りがたい雰囲気を出す加藤の壁をやすやすと乗り越えていく世之介の鈍感さ。子供や動物だけが持つような純真さに、加藤もいつの間にか心を許してしまう。

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世間とかなりずれたお嬢様である祥子(吉高由里子、左)の存在感も大きい。世之介もちょっと変わっているけど、輪を掛けて変わっているのが祥子で、ここまでの変人をなんの不自然さもなく演じられる吉高由里子のすごさというか、本当にこういう人なのではないかと思えるぐらいだった。雪の夜の初々しいキスシーンが良かったですね。

映画は、大学時代の世之介と友人たちと、それから15年ぐらいたった現在とを行ったり来たりする。仲の良い友人に囲まれ、大学生活を満喫していた世之介だが、現在では友人たちとは連絡を取っていない。派手な喧嘩別れや明確な理由があったというわけでもない。なんとなく次第に疎遠になっていったような雰囲気なのだ。どうしてなのか理由は明かされない。

このことがとても不思議でした。でも、自分の暮らしに置き換えてみると納得できる。仕事、結婚、病気、経済的理由などあるのかもしれないが、学生時代の友人とは疎遠になっている。わたしの場合、35ぐらいまでは頻繁に交流があったのだけど、潮が引くように減っていった。今では孤独死三秒前である。そこまでではない。そこまでではないよ! なあ! なあ‥‥あれ?

それと、学生時代と違って、友人との考え方や興味の違いを感じる場面はあった。一本の物差しをイメージしてほしい。ある人は、中心点から正の方向に1cm移動する。またある人は中心点から負の方向に1cm移動する。この二人の距離は2cmである。でも、社会に出て何年もたつと考え方も固まり、この移動が10cmぐらいになっているのではないか。すると、二人の距離は20cmであり、もはや歩み寄ることが難しい状態になっている。お互いに考え方が定まっておらず、未熟だからこそ一緒にいれたということもある。

生活に追われるうちに友人とは疎遠になり、職場で新しい知り合いができる。連絡を取らなくても、それはそれでなんとかやっていけるのだ。だが、ふとした瞬間に友人のことを思い出し、もはやお互いがお互いの生活圏内に入っていないことを確認してしまう。友人と遠ざかっていたことより、遠ざかっていても平気だったことに気づいたのが淋しい。この映画がただの楽しい青春映画ではないのは、淋しさや無常を感じさせるからかもしれない。

世之介は、ホームに転落した人を助けようとして自分も亡くなってしまう。これは実際に起きた新大久保駅の転落事故が元になっている。なぜ、世之介が亡くなる必要があったのだろう。無理に泣かせようというわけでもなく、事故の直接的な描写はされていない。ラジオニュースで流れるだけに留めている。亡くなる必然性が感じられなかった。

世之介というものを、無邪気でただひたすらに楽しかった青春時代の象徴として描いたのだろうか。それはもうどんなに渇望しても再び手にすることがないものだという解釈は、あまりに意地の悪いものかもしれない。なにも世之介を殺さなくても良かったのではないかと思いつつ、また別の解釈があるのではないかと考えている。大学時代の場面は愉快な気持ちになれて、現代は胸の奥が疼いて少し淋しい気持ちになるような、そんな素敵な映画でした。

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