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2016

かぐや姫の物語

2013年 / 日本 / 監督:高畑勲 / ドラマ
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穢れの中にある真実の生。羽衣をはおる前に‥‥。
【あらすじ】
竹取物語です。


【感想】
平安時代初期までに書かれたとされる日本最古の物語「竹取物語」をベースに作られている。昔話で二つすっきりしないものがあって、一つは浦島太郎、もう一つが竹取物語でした。ハッピーエンドなのかどうかわかりにくく、子供心に引っかかるものがあった。

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絵が独特で、まるで色鉛筆で描かれたよう。輪郭が鉛筆で何重にも描かれているような。力強さや温かみのようなものが伝わりますが、やっぱりこういう書き方はものすごく手間がかかるのでしょうか。一つ一つの絵が絵本のようですてきですね。

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五人の公達は、かぐや姫の美貌を聞きつけ求婚に訪れる。彼らはかぐや姫と会話したことすらない。顔も性格も知らない。彼らは噂だけでかぐや姫を娶ろうとする。自分という存在が美によってしか必要とされないとしたら、やはりつらいような気がする。それでは、自分というものは人形や美術品と変わらないのではないか。

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かぐや姫は「なよ竹のかぐや姫」という名をもらったお披露目の宴で、酔っ払いの言葉に腹を立てて屋敷を飛び出す。かぐや姫の絶望を表すように風景は黒一色となった。服を脱ぎ捨て疾走するかぐや姫は、鬼にでもなってしまいそうだった。自分の容姿や財産にしか興味を示さない男たちの中にいる気持ち悪さ、それは男には想像しづらいものかもしれない。

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かぐや姫の関心は、きれいな衣装や贅沢な暮らしにはない。幼い頃に裸足で野山を駆け巡り、キジを獲って、機で着物を織るような、ごく当たり前の暮らしがしたかった。そして幼馴染の捨丸と一緒になりたかったのだろう。

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最後には月から天人たちがかぐや姫を迎えに来る。天人が持ってきた羽衣をまとうと、地上の記憶が消えてしまうという。「月に戻れば心が乱れることもなく、地上の穢れも消え去る」と天人の女官が言う。かぐや姫は「地上は穢れてなどいない」と反論する。だが、姫のすきを見て羽衣をかけられてしまう。姫は地上の記憶を失い、廃人のようになってしまう。

やはりこれは生き方の話ということになってくるのかなあ。地上(=現世)ではお金や地位、贅沢な暮らしが理想とされている。だが、本来の人のあるべき姿、自然と共に生きる当たり前の暮らしが失われている。そして月(=死)に帰れば、人はすべてを忘れることができる。

かぐや姫は羽衣をかけられ、すべてを忘却して月に戻る途中に涙を流す。何も憶えてないはずなのになぜか泣いている。月というのは死そのものというより、思考の死なのだろうか。

現代人は便利なものに囲まれ、何不自由なく生きている。考えることをしなければそれなりに楽しく生きていける。ゲームをやったりネットを見たりしていれば、それなりに時間は流れていく。それこそが思考の死ではないのか。月にいるようななんの苦悩もない状態。お金や地位が至上のものという価値観を疑うこともせず、本当に自分のやりたかったことからは目を背けている状態、はたしてそれが生きているということなのか。

天人がいう地上の穢れとはなんだろう。他の生き物を殺さなければ生きられぬ業のことか、うまくいかぬ人生の挫折や苦しみだろうか。人が必死に生きていれば穢れを溜めざるをえないとすると、穢れを溜めることがすなわち生であり、苦しみの中にしか生はないのかもしれない。だとすると、かぐや姫が「地上は穢れてなどいない」という理由もわかる気がする。月で安閑とした日々を過ごすことよりも、苦しみの中でもがくことが生だとするなら。

わたしも含めてだが、現代人はみずから忘却の羽衣をまとっているように思える。それはとても楽なことだ。この作品にどんな意味が込められているのか、どう解釈してよいのかわからない。観る人によって感じ方がかなり異なるように思える。ジェンダー論としての読み方もできる。何年かたって観れば、また違う意味を見つけることができるでしょう。日本最古の物語をこんな形にするなんて、高畑勲監督は本当に興味深いものを作りますね。


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